「夜明けのすべて」覚書 : 夜明けを祈りながらも夜を悪者にはしない
「夜明けのすべて」を観ました。二ヶ月前に。正直記憶が霞みつつあるが、今もなおこの作品に対するありがとうが消えない。今観たかったもの、かたちにしてほしかったものが急に目の前に現れて、私は……
かなりぐちゃぐちゃ文。
あらすじを簡単かつ乱暴に紹介すると「PMS持ちの女性とパニック障害持ちの男性が助け合う」という話です。もちろんこれ以外にも様々な人や要素(死者を手放せずに/手放したくないと思いながらも生者に寄り添い続けようとする人たち、大切な人を苦しみから助けようとしても助けられず悩む人)がいるのだが、軸としては前述の通りで間違ってはいないはず。
「私は自分のことがよくわからない」「自分ではどうにもならないことが多すぎる」という独白が作中に出てくる。自分に対するままならなさやどうしようもなさ、「普通」になれない焦りと失望が、日常の些細な違和感をきっかけにぶつかってきて、このままではいけないと自覚しているのに自分ではコントロールできない。そんな気持ちがあると、それを甘えだと茶化さずに見せてくれるだけで、もう私は本当に満足してしまった。私は「私は普通じゃないんだ」とはあまり思わないようにしているし思いたくない。事実としてたとえ世間的に見て私が変だとしても、私基準、私が私である限りは変ではないから。あくまで私の考えだが、そこで「私は普通じゃないんだ」に収束してしまうと、諦めばかりが加速して、自分も他人も顧みなくなるのではないかという恐怖がある。「普通」という物差しは己一人で生まれるものではなく他者との間に介在するものであるせいか、「普通じゃない」と思うことは互いを一緒に混ぜて紙やすりで擦り付けて摩耗させるような感覚がする。紙やすりで削られるのは私だけでよく、他人を巻き込むのがちょっと…になるので、できる限り「ウチはウチだよー」というマインドでいたい。
でもときどきそれが難しいときがある。何気なく言った言葉で一瞬場が止まったり、自分の挙動一つで空気が固まったとき、「普通じゃないことをしてしまった」と思って心が陰る。その暗さはすぐにはなくなってくれなくて、少なくとも寝るまで、場合によっては日を跨いでも晴れない。そういう時に自分で自分がわからなくなって、だからといって何か自暴自棄になったり泣いたりするわけではないが、自分ってわかんねーとただ思いながら生活をする。そしてこの気持ちはたぶん私だけのものではなく、他者も持っているものだろうし、自己不明瞭はみんなが多少は持っている。たぶん。「私は私がわからない」。なんであのときあんなことを言ったのかわからないし、特になにか考えていたわけでもない普通の状態だったし、でも私が何かアクションをしたときの雰囲気は一瞬だけ「普通」からずれた。ということは何かが普通ではなくなって、そのきっかけが私だとしたら私は「普通」ではないのではないか。でも「普通じゃない」と思いたくない諦めたくないと、そう悩むことがある。自分がわからないし、私は私だからどうにもならない。そこから先に進めない。
では「夜明けのすべて」でその「自己の不明瞭さ」がどう収束するのかと言うと、そのまま。そのまま終わる。自分のことはわからないし、自分を苦しませるPMSやパニック障害という性質(性質と言って良いのかはわからない、すみません)も改善はしない。藤沢さん(上白石萌音)のPMSがぱっと消えることもないし、山添くん(松村北斗)のパニック障害も元通りになることはない。実際、電車に乗れない山添くんは物語の終盤でも、暗くて人がたくさんいるプラネタリウムの中には入らず、受付でじっと座って待っている。つまりは根本的な「自己のわからなさ」は一切解決していない。それでも彼らは互いに助け合うようになって前を向いている。私はそれがすごく嬉しくて、全身の涙腺をフルに使って泣いてしまった。本当に。というか最序盤、藤沢さんが雨の中PMSの発作が出てしまっているシーンからもう泣いてた。あーと思って。私もやけになったら自然と口から奇声が出るから。あれ本当に制御きかないんです。
彼らがなぜ前を向けたのかといえば、他者理解が大きな要因だと思う。藤沢さんはもとから共感性が高いタイプで、パニック障害の山添くんに何かと世話を焼く。パニック障害を持つ人が書いたブログを読み、山添くん本人に症状について聞くこともある。一方で山添くんはもとから共感性が低いタイプで、藤沢さんが「お互い頑張ろうね」と言ったときも「PMSとパニック障害って全然別物じゃないですか」などと返したりする。そんな彼も藤沢さんと関わり始めて、PMS関連の書籍を読み、発作を起こすギリギリの藤沢さんを連れ出して、彼女のPMS由来のイライラを一人で発散させようとするようになる。(藤沢さんは発作を起こして誰かを傷つけると、また自分で傷ついてしまうから)
物語が進むにつれて、互いが互いの事情を知って、理解して、接する、という流れが生まれてくる。そうして互いに接して、二人で「わからなさ」と向き合って、それでも「わからなさ」は消えないけれど前を向いて生きていく。ここがほんまに肝心なんだよなとしみじみ。自分でひねくれてこもるのではなく、他者と話すこと、助け合うこと。これこそが我々が精一杯できることで、それができていれば「わからない自分」をわからないまま受け入れられると。現実に持ってきたら夢物語かもしれないけれど、私はそこに救われたんすよ。「わからない自分」をわからないままという。
そしてわからないことは悪いことではない。それが端的に表れているのが、藤沢さんの「パニック障害になって良かったことってある?」(うろ覚え)というセリフ。何を言うてんすかとびっくりするし、山添くんも「ないですよそんなの」と言うしかない。それでも私はここがこの映画の真骨頂だと信じている。
「夜があるから見える星がある」という言葉が出てくる。もうこれ本当にその通りなんですよ。夜は暗いし淋しいしどうしようもないし、あまりにも周囲が見えなくなるし怖いし。それでもどこかに星がある。かすかな光を眩しいと感じる。光を見せてくれる夜を憎みきれない。
これがねーーーーーーーーーありがたい。
「自分のわからなさ」は夜、暗いし何もわからないけど、その中に沈んだからこそ出会える光がある。夜を夜として愛する。本当にこれってね、ありがたいんです。これをやってくれるのは。本当に。
藤沢さんも山添くんも、自分の夜はまだ明けない。ひょっとしたら明けかけているのかもしれない。でももしかしたらまた夜はやってきて、嫌になる日が来るのかもしれない。それでもお互いに助け合ったあの時の光、自転車、一緒に考えた原稿、カセットテープ、すべてが星になる。かすかに輝くそれを目に焼き付けて前を向く。あの輝きを見せてくれた夜は自分の敵ではない。もちろん夜明けを願っている。けれども夜はやっぱり悪者ではない。
私も夜を大切にしてあげたいよーでもまだ無理な気がする。今は細々と星を探しています。見落としてるかもしれないので、もしそうだったら教えてほしいです。私ももちろん頑張って探します。人に聞いたりもしていきたいけど、急に自分の夜を見せると人は困惑するから気をつけたい。そんな感じでやっていきましょう。いけるのか!?
あれこれ(2024年4月周辺)
図らずも自分が再構成されているのを感じる昨今。今更!
己はこんなにも調子乗りだったかと考えると頭が痛くなってくる。元来新しいコミュニティに飛び込むタチでもなく、常に決まった顔決まった人としかお喋りをしなかった私も、さすがにこの時期には知らない顔知らない人と話す機会が多くなった。どのくらい多くなったのかというと、もう信じられないくらい多くなった。意味不明。誰か助けてください。でもフォスのほうがもっと辛いよな、ごめん、俺もっと頑張るよ。(この間、全話無料公開の期間中だけその漫画について騒ぐのはネット民の悪癖だという意見を目にした。ほんとにね。私は馬鹿で、ネットは愚かである)
とにかくここ最近口が滑りまくる。滑るというか制御不可能。何か特別失礼なことを言っているわけではない、と信じたいが、何か自分の口調が軽薄になっているのを感じる。ここでいう「軽薄」とはウェ〜イw!みたいな感じでもネアカという意味でもなく、ただひたすらに信用のおけない、吹いたら飛んでしまう重みのない言葉しか出ないという意である。なんかもう「最悪人間」になっているのだが、少なくとも4月に入る前はかろうじて「馬鹿人間」で済んでいたはすだ。
何故こんな状態に陥っているのかというと、単純に言えば焦りと媚びな気がする。
知り合いが一人もいない環境に放り込まれ(自主的に)、何かしなければ何か人と関わりを持たなければ周りに追いつかなければ、そういった焦りがまず大きくあると思う。人との関わりや会話はかなり精神状態を左右する。自分が満足する会話量と自分語りさえできればそれなりに精神は安定するが、できないときは本当に落ち込む。そこで崩れていたらもう今後何もできなくなる気がしてならない。なので早いところそこそこ自己開示できる人を作りたくて、そのくらい関係性を進めたくて、焦っている。そして関係性を進めるには相手に好かれないといけないと思い、媚びる。口が軽くなる。思ってもいないことを言い、共感できないことに「わかる」と言ったりする。そうして時々とっさに嘘をつく。気がついて嫌になる。まあこれですわな。
しかし焦りも媚びも精神の均衡も全て私側の事情であり、私が懸命に話しかけたり関係を深めようとしている相手はそうではないかもしれないことは忘れたくない。そもそも人と話さないと精神が云々は完全にこちらの事情であり、そのあたりの感覚や性質を共有していない人にとっては、他人のメンタルケアなんて不吉な役目負いたくない。当たり前に。私だって嫌だよー(!?)
そのあたりを理解して適切にほどほどに仲良くなりたいんですが、どうしたらいいですか? 鼻垂らしてる小学生に聞けばわかりますか? それともこの世で一番何も考えてなさそうな中学生に聞けばわかりますか? 私のこの疑問は、年若い子どもは焦りも媚びもなくのびのびとしていて、そして何よりも本質的であるという無意識の若年層神格化に基づくものなんですか? なんで成城石井ってあんなに高いんですか? ワッフル4つで800円!?!?!? 破壊します。
というか、こんな失言癖は昔々からあって、それに最近自覚的になっただけなのかもしれない。最近己を省みることが多いため。それは…良いこと…なんでしょうか!?
誰かの発話に私の知らない名前が出てくると驚く。前述したとおり私は限られたコミュニティの中で生きてきた蛙なので、基本的に知っている人の話題でほとんどの会話が完結していた。しかし「〇〇ちゃんが企画してくれて」「〇〇って知ってる? 知り合いなんだけど」「〇〇、良い奴っすよね」とかさー
なんなん?
「そんな奴ら知りませんよ」ということが言いたいんじゃなくてさ、そんなに他人の名前口に出して、バチ当たんないんすか? ということが言いたい。
いやなんのバチ?
私は思ったより名前を大事にしていたらしい。大事にしているというか、不可侵だと思っている。他人の名前を呼ぶということはその他人を自分の領域に引き込むことで、自分が他人を引き込むのも他人に引き込まれるのも自己意思で決められると思っていた。実際はそうではなく、名前はいろんな人の口を渡ってポンポン跳んでいる。ついでに私の耳に入り、すぐに忘れるとはいえ数秒だけ私の領域に留まる。名前が勝手に泳いでいるようで怖くなる。あんたの名前はあんたのもので、私の名前は私のものなのに!?
この間「火星さんと同じコミュニティにいたって人に会ったから、火星さんのこと伝えといたよ」と言われた。私の名前も泳いでいる。とりあえずお礼を言っておきましたが、なんのお礼ですか?
ビョン・ベッキョンさーん
あなたの身体と脳味噌と魂に流れるリズムと音、音楽そのもの
4月20日、ベッキョンさんの歌声を拝聴……
iPhoneとかいう空洞の機械を通してもベッキョンさんの歌声はいつも魂と凄みに溢れているのだが、やはりそれも生歌声には勝てないということを痛感。iPhone売ります。
私はベッキョンさんを昔から知っているわけではない。せいぜいここ三年くらいである。なので今回ベッキョンさんの姿はもちろん、パフォーマンスも初めて肉眼で観測した。ベッキョンさんって、生きてんだ。歌声も身体もトークも何もかも素晴らしく、きちんと地に足ついていて親しみがあるのに、何処か神聖さがチラつく。地上で努力を重ね、そして天上から祝福されているんだね、ベッキョンさんは。
何より驚いたのはベッキョンさんの身体。こういう言い方をすると「裸体に湧く人」みたいになるので嫌なのだが(私は全ての芸能人に”セクシー”を求めておりません。)、ベッキョンさんの四肢にはリズムが迸っている。音楽がある。ベッキョンさんは身体の中のそれを動きで操って、ひょいひょい空間に流している。Betchaとかめちゃくちゃ空間に音楽充満してて本当に気持ちよかった(?)
平たく言えば彼は音楽に愛されている(愛させているというべきか)。カイきゅん(キム・ジョンインのことです)がダンスに愛されているのとはまた違った愛され方だ。
上手く言えないけど、さっきの話に即するとカイちゃんは浮いていて、ベッキョンさんは地に足がついているんですよね。ここに優劣はないです。
あまりない知識で言わせていただきます……
カイちゃんは本当に本当に楽しい楽しいとパフォーマンスをしている。彼にとってパフォーマンスは仕事だし本人もそれを熟知しているが、それはそれとして踊ると楽しさが前面に来て滲み出てしまう。観客にも彼が浮足立っているのがわかる。
一方のベッキョンさんはパフォーマンスを楽しみつつも(実際、今回私は入った公演では結構はしゃいでいるようだった、かなりうちらと話してくれたし)、仕事として割り切れる部分がある。プロフェッショナル仕事人というか。楽しみとパフォーマンスを切り離しているように思う。彼は、器用な方だから…(何も知らないくせに知ったような口利くんじゃないよー)(自己叱咤) その切り離しというか楽しみと使命感の共存が、ベッキョンさんに私が抱く「地に足がついている感覚」の源泉になっている気もする。
お二人とも最高存在で…。
公演後はベッキョンさんの御神託どおり、ファミレスで肉食べました。
7月のド・ギョンス…
受けて立ちます!!!!!!!!!!!
その前に新ソロアルバム聴きます。妙ちきりんな掃除機ダンスは知ってます。
ていうか、人並みの生活してたら新潮120周年買い逃したんですけど
↑俺のための回すぎる 覚えてないだけで、自分が選抜したのかも!
新潮社、献本まだうちに来てないです 早いうちによろしくねー
最近ボルダリングの体験に行ってきた。急に思い立ってというわけではなく、周りが色々と新しいことを始めており(春だから!)、「じゃあ私も春だしなんか始めっか」ということで。
近所のジムで体験コースを予約。応募締切の結構ギリギリに申し込んだので、店員さんキレてないかなと戦々恐々としながら体験日を迎えた。気だるげに手慣れた店員さんと相対して手続きを済ませ、注意事項の動画を見せられる。これが長い。15分。寝ますよ。寝ませんでしたけど。とりま当たり前に危ないことすんなよとのこと。ところどころに専門用語が出てきたが一切の説明はなかった。不親切だろ。
案内された休憩室に荷物を置き、指定された集合場所に行くと、
ガキとその父親!?!?!?!?!?!?
当然体験コースには他組の応募もある。そして一組一組につきっきりで教えるのも効率が悪いので、当然応募者全員ひとまとめにして教える。
にしても、子ども。
子どもは嫌いでもないが好きでもない。微笑ましいと思う。しかし自分が単純に子ども慣れしておらず、初対面同然の子どもと間近で何か活動をするのは久しかった。なので少し緊張した。大人が、小学生に……。
と言いつつも特に問題があるでもなく体験は進んだ。私もせいぜい新しいコースに挑戦するたび、子どもに一番乗りを譲ることしかしなかった。しなかったが…………
子ども、眩しすぎる。
なんで奴らはあんなにも屈託なく、無邪気で、恐れを知らず、何よりその明るさを振りまくのか。おかしいだろう。あんな発光はそうそうお目にかかれない。すごすぎる。ガキ眩しすぎる。途中で嗚咽しかけた。別に奴は何もしていないのに。というか「僕これできる!」「僕やる!」みたいなもの言い、あれすごい。何物にも打ち砕かれていないからこそ出せる真っ当さ。私が失ったもの。全能感が眼前で光っている。
あんな時代が自分にもあったのかと思う。それだけで何か善行を働いていた気分になる。たぶん子ども時代の私は鼻持ちならないガキだったけど、その全能感に価値、価値と言うとやけに社会の物差し感が出るので訂正、輝きがあったのだと悟った。
あの頃の全能感を今の私が手に入れたら、もっと物事上手く進むのかなーこんなにくたびれてしまって、と思いながらも体験が終了。腕は棒になった。痛すぎて。
「体験終わったあとも好きに登っていいですよー」と言われ、出した金額の大きさを考えた結果、少しでもより有意義な時間にしようと登ってみた。最低レベルのコースを一回登って終わった。だから腕泣いてんですよ。
体験が終わったあと、「まだ登るの?」と聞いてくれた子ども。私が帰る頃もまだ登っていた。まだきゃらきゃらはしゃいでいる。あいつ眩しすぎるだろ。
お前が打ちひしがれきゃいいなーと思う。絶対に。なんかあったら連絡して。不審者になるから連絡先なんて聞いてないし教えてないけど。でも本当に幸せでいてほしいよ。
ボルダリングジムは通い続けたいなーと思っているのですが、思っていたよりも「普通の生活」ってやつが凶悪で……わかりませんね!?
実は今日「夜明けのすべて」観てきた
本当に良かった良かった良かった、んですけど、また今度で良いですよね
泣きすぎて目と頭ぼんやりするし、ALL NIGHT LONGだし
あれこれ(3月周辺)
諸事情でバイトを辞めることになった。別に何かをしたわけではなく、当然の成り行きで。そこそこの年数働いたため何か感傷じみたものが込み上げるかと思いきやそうでもなく、最後の出勤日も普通に勤務して普通に退勤した。ついでにタイムカードを切り忘れたので、後から店長に言った。最後まで締まりがなく曖昧で何もかも宙に浮いており、しかしまあこんなものだろうなと勝手に納得。常に急いているくせして詰めが甘く、舐め腐り性質を持つ人間として……。
最終勤務日、同じシフトに入ったアルバイトの人に「私、今日最後なんですよ笑」が言えなかった。これがなんでかわからない。浅く自分を考えれば、「わざわざそんなことを言っても特に会話が弾まないから」という理由が真っ先に浮かぶが、別にその人と勤務中何か身のある雑談をした経験などないのだから、いつも通り身のない話題のひとつとして己の離職の話を持ち出せばいい。というかそうするべきだろ普通に。他にも「気を遣わせたら申し訳ないから」などあるかもしれないが、それは一体どういう気なんだ。
じゃあもう一段だけ深く考えたら何かというと、自分の期待が外れるのが怖かったというのがある。「私、今日最後なんですよ笑」の後に返ってくる反応が思い通りじゃなかったら嫌という。やかましいよ本当に。
↑見ました
犬が最カワ。
人が持つある性質やバックボーンは必ずしもある行為に結びつくわけではない。状況という客観的証拠が誰にも担保されていない場合、人々の知識・経験・偏見が性質と行為を結びつけ、解釈し、行為を物語化していく(それも個人個人が納得できるレベルの物語)(そりゃ人によって違う)。そして人によって作られた解釈や物語は決して正しいとは限らないという話として受け取った。物語によって人々が行為を肉付けし固める時、そこにいるはずの真実は何処か遠いところで一人でいて、それは誰にもわからない。そういうものだよなあと思う。それで、結局は真実がわからないので変に疑念は残る。居心地が悪いですという。
解釈って本当に嫌ですよね(謎同調)。幻惑に近い。この映画では裁判や聴取の中でも「思う」とか「だろう」とか「はずだ」みたいな推定・推測の言葉が多用されている。それらの言葉と解釈がぶつかったり擦り合わせられたり検証されたりして、裁判は進んでいく。正しくて論理的に見える幻を決めていく。まあこういう事件の裁判ってそういうものですねと腑に落ちる部分もある。
話をずらして視点を自分に寄せてみると、私はこの類の解釈バトルを人生で何度やるんだろうとうんざりするところもある。
解釈という言葉は日常的に出てくるし、なんなら解釈と銘打たれていなくても日常会話の中でこの映画における裁判と似たようなことは起きていると思う。人の噂話とかだとより顕著。その人の行為を議題に上げて、色々と解釈を付けてそれらしい物語を作るみたいな。仕事の場合だと解釈=意見になって、ファイトしなければいけなくなるのかもしれない。
いずれにせよ、その場合の解釈やそれによって形作られた物語はあくまでも幻であり、実際の行為の目撃もしくは実現によってしか真実として証明はされない。これが本当に困る。別に真実絶対論者とかではない。うっすらとした感覚の話。
しかし解釈や意見、物語をぶつけ合うのはまさしく対話であり、あまりにも壮大だが、それをするのは自分と社会と宇宙のためでもあると感じている。というかそう考えないとちょっと私は尻込みしてしまう。張り切っていきましょう、レッツ対話!
好きな映画だった、ヴァンサンかっこよすぎるし
あと時々フランス語リスニングに挑戦していたが、九割聞き取れなかった。つまりほぼ聞き取り不可能。精進。
最近、百鬼夜行シリーズ? 京極堂シリーズ? を読んでいる。読み始めたきっかけはこの作品の二次創作が目に入ったから。私は邪な理由で本を買う。家にある本の七割くらいがそう。最初の二冊まで読んで積んでいたものを去年の暮れあたりから再開し、面白いので次々読み勧めている。今は宴の始末をしています。
一冊一冊につきテーマが明確化されてるので理解しやすいし、登場人物の性質も京極堂の喋りも好きなので楽しい楽しいと読んではいるものの、ふとした時に京極夏彦の異様なまでの整理癖というか操りスキルに怖くなることがある。あまりにもテーマが明確化されすぎていて。そしてそれを登場人物たちと物語が一切の狂いなく体現しすぎていて。全部京極夏彦の掌の上なんだろうなと思うと「あの、勘弁してください」になる。ビビるよ申し訳ないけど。もともと京極夏彦は本の形態に合わせて文章がページを跨がないようにいちいち調整しているという話は聞いていて、すごwと笑っていたが、最近書評とかでも緻密に段落や文章を調節しているらしいと知り、何なの? 怖い本当に。
宴の始末を終えたら、とりあえず一旦百鬼夜行シリーズは中断しようと思っている。京極夏彦への畏敬からではなく、単純にここ数ヶ月他の本をほぼ読んでいないから。
榎木津礼二郎さん、慈行さん、織作茜さん……
好きです。
ミュージカルの京極堂!?!?!?!?!?!?
関口を箱根ダブルデートに誘うシーンで京極堂が歌ったりするのかな
炎に包まれながら歌う慈行さん